アネモネは朱色の欄干に身を預けて、橋の下の流れに眺めていた。
ごう、と音は絶えることなく、青い水はしぶきをあげ、時には渦を作り、海へと向かって流れていく。
この流れに身を投げるのはどうだろう、とふと、アネモネは思った。
役に立たない自分でも、何もできない自分でも身体は何かに使われるだろう。
魚にでも、貝にも、植物にもなれる。
悪くない考えのように思った。
欄干から身を乗り出していた、と彼女が気が付いたのは重心が欄干の向こう側に移った時だった。
いい考えだった、かもしれないとスローモーションがかかったように見える景色の中、そう感じた。
でも、これで――
「ここで紐なしバンジーをやっているのかしら?」
耳元で声が聞こえた。
抱き留められたのだと気が付くには随分と時間がかかった。
「……」
アネモネは歩道に足がついてから、川のほうを見た。
先と同じように激しく水は流れている。
しかし、この中に飛び込もうという気はもうしなかった。
「泳ぐには流れが急ね」
助けてくれた少女も並んで見下ろしてそんなことを言った。
「そうね。まだ、時期もはやいし
「気は紛れた?」
赤い瞳が真っすぐ向いている。
問いの意味をアネモネは考えた。
それは、きっと、先にやろうとしていたことについてだとすぐに思い至った。
「うん」
「そう、それはよかったわ」
そこで会話は途切れた。
川の流れる音だけが聞こえる。
会話をしたり、何か一緒にしたり、とは違う居心地の良さをアネモネは感じた。
「話を、してもいい?」
「いいわよ。時間ならたくさんあるから」
「わたしね」
アネモネはそこで一呼吸おいた。
自分の考えを述べて何を言われるのか不安を覚えたからだ。
それでも、この人なら話を聞いてくれそうだ。
そんな気がした。
「水になりたかったんだ」
少女は川のほうをちらっと見てから、視線をアネモネに戻した。
「水に?」
「どこへでもいける。何にでもなれるから」
「海にもいけるし、雨にもなれる、ということかしら」
「誰かの役にも立てる。今のわたしはただの荷物だもの」
そういいながらアネモネは笑顔を作っていた。
「そう」
少女は否定とも肯定ともとれない声色で言った。
たいていの人物は困惑するか、ちぐはぐな姿勢に怒り出すのだが、この少女は違うようだった。
「それは、辛いわね」
短い言葉ではあったがその言葉には理解を示す重さが感じられた。
「うん。辛い」
そこで会話は途切れた。
少女はしばらく考えているようだった。
言葉が見つからないのかもしれない。
アネモネはこのやり取りは終わりにしよう、と考えて、口を開こうとした時だ。
「名前、教えてもらえるかしら?」
「……アネモネ・ホワイティル」
「カシスよ。坂下 カシス」
「変わった名前」
気が付くと笑っていることにアネモネは気が付いた。
名前が面白いから笑っているのだ。
これは、失礼だと謝ろうとすると、
「ハーフなの」
とカシス。
「おかしな組み合わせだと思って笑うなら、笑っていいのよ。あとで自然な名前だと思ってくれたらね」
「変……」
「よく言われるわ」
気分を害した様子を欠片も見せず、カシスは言った。
ふと、振動音が響いた。
アネモネのハンドバッグの中からだ。
取り出すと帰宅の催促のメールだった。
「わたし、戻らないと」
「そう。気を付けてね」
「……ありがとう」
アネモネは家に向けて歩き出した。
橋を渡りきったところで振り返ると、カシスはまだ立っていた。
そして、こちらに手をゆっくりと振っている。
手を振り返し、再び歩き出すと強い風が吹いて、アネモネは髪を押さえる。
ふと、橋のほうを見るとカシスの姿はなかった。