夜の海は静かだ。人の喧騒も車の音もない。船の中には美汐と凛の二人だけだ。先程まで潜航ポイントにはいつつくのか、と話をしていた。確認が終わると、それきりだった。
他愛もない話で緊張がほぐれたり、何かに気がつくかもしれない。出港前ならともかく、今は海の上、彼女の仕事の領域だ。仕事の邪魔をするのは気が引ける、と凛は思って口を閉ざしていた。
この沈黙は嫌な沈黙ではなかった。暗い操舵室の中、シルエットしか見えない美汐はどこかリラックスした様子で操舵をしている。後ろに座っている凛も端末を夜間モードに切り替えて、メッセージを整理していた。諸般の事情で休学中の学生の近況報告に短く返信するとやることがなくなった。潜るまでは完全に自由だ。
彼は海図を表示して、あることに気がついた。もしかすると、美汐も何度か見ているかもしれないが、
「もうすぐ、面白いものが見える」
「面白いもの、ですか?」
美汐が前を見た。遠くの海面が青白く光っている。船が近づくにつれて、それは無数の何かが点滅しているのだと見えてきた。植物性のプランクトンが波などの刺激を受けると光る。子供の頃に見たことがあると美汐は思い出す。
「この光り方は夜光虫、ではないですね。こんなに大規模なものは見たことがありません」
後部カメラを見ると航跡に合わせて光が広がっていくのがわかる。
「ご明察の通り、夜光虫ではない。塩分濃度を調整し、海流を整えるために作られた特殊なプランクトンだ。テラフォーミングの一環だよ」
「知識は持っていましたが、実物は初めてです」
その言葉に安堵と喜びを覚えて、この感覚はなんだと、凛は一瞬だけ顔を顰めた。コクピットは暗く、美汐は正面を向いているから表情は見られていない。そこまで意識することなのか、と凜は自問する。
「潜航ポイントにもいるはずだ。星の海に潜るような体験ができる」
「意外とロマンティックなんですね、先生」
「嫌いかい?」
「いいえ。趣向を変えるのもいいと思いますよ」
潜航ポイントに到着すると二人は潜水艇ユーフォニィIIに乗り込んだ。操縦席には美汐、後部席には凛が座る。美汐の指示で凛はシートベルトで体を固定した。
「ユーフォニィIIからヌーデブランク、潜航準備開始してください」
『こちらヌーデブランク了解。潜航準備開始、後部注水開始、アップトリム15度。後部ハッチ開放』
「こちらユーフォニィ、開放確認しました」
母船とのやりとりを聞きながら、こういう時でも丁寧語なのが彼女らしい、と凛は思う。潜航用のレールが海中まで伸び切ると、そのレールの上を滑りながら、ユーフォニィIIは海面から海中に姿を消す。その時の衝撃で光の波紋が海面と海中に広がる。狭いコクピットガラスと外部カメラの映像がその様子を捉えていた。
「これは、綺麗ですね」
「よかった。実は私も初めて見るのでね」
「下見は必要では?」
「下調べはしているよ」
バツの悪そうな様子で美汐は同意した。何かまずいことを言ったのか、と凛は思ったが深く追求するものでもないだろう。
「では、予定通りに潜ってくれ」
「わかりました。動力潜航開始します」
海中に潜り始めると、ユーフォニィIIの軌跡が星空に変わっていく。
「このプランクトンは外部からの衝撃ではなく、体内の塩分を放出するときも発光する」
美汐は前面から目を離さず、
「前面の光は塩分を放出しているから、ですか」
「そうだ。いい目だ」
「私にとっての武器ですから」
プロフェッショナルとしての矜持を感じて、凜は尊敬の念を覚える。潜航調査の依頼を出すたびに良い方向に評価を改めている自身に気が付いた。
腕利きのパイロットが見つかった、という喜びもあるが果たしてそれだけなのか。先の安堵といい自身に何かが起きている、と凜は認識する。
今は調査に集中すべきだと、別の話題を切り出す。
「そういえば、先ほど、下見と言っていたが、言葉のあやか?」
「言葉のあやです」
きっぱりと言われ、話題の選択を間違えたと凜は一瞬だけ苦笑した。依頼に必要なことは事前に共有している。何か見落としはあっただろうか。
「前方、発光が強いです」
「深層海流があがってきている。濃い海水層だ。揺れるぞ」
「了解、衝撃に備えます」
二人はシートに身体を密着させた数秒後、ずしん、と鈍い衝撃がユーフォニィIIを揺らした。
「今のデータはとっているか?」
「保存してあります。確認しますか?」
「頼む」
美汐が後部座席のディスプレイにデータを表示すると、しばらくして凛は唸りながらいった。
「予想より効果がでている。まさかこれほどとは」
「速度を落としますか?」
「速度そのまま、目標地点に向かってくれ」
「了解、速度そのまま。目標地点に向かいます」
目標地点は熱水噴出孔だ。散布した深海生物たちが定着しているはずだが、果たして予想通りに進んでいるだろうか。そうあってほしいと願いつつ、凜は目を閉じて深呼吸する。