#author("2018-06-16T16:29:59+09:00","default:sesuna","sesuna") [[DAYS]] 水はどうも苦手だ、と伊藤は思う。 親曰く、幼稚園のころに家庭用の小さなプールで溺れてから水を避けるようになったという。 それだけ心に傷を残した出来事だったのにわたしの記憶には残っていない。 いやな記憶も度が過ぎると消えてしまうものらしい。 高校生の今でも見えない壁になるぐらいなら、覚えていてくれたほうがやりやすい。 プールサイドでそんなことを考えながら時間が過ぎるのを待つ。 まわりには体調不良や面倒くさがり屋、恥ずかしがり屋などが雑談したり、うたた寝したりしながら時間を潰している。 男子は水が気持ちいいからだとか、誰が長く潜れるかだとか、誰が遠くまで泳げるかで競争になっている。 男子は1レーンを慣れや遊び用、2レーンを泳ぐ用に使っている。 女子は人数が少ないので1レーンを遊びや慣れに使っていた。 「いっそ、男子だけでいいんじゃないかな」 誰かがそんなことをいった。 確かにと頷く。 選択で受けられればいいのに。 「男子は気楽ねえ」 という声もあがる。 気楽かどうかはわからないが楽しそうではある。 競争をしているレーンを見ると、男子の中に一人、女子が混じっている。 2つのレーンを使って競争をするらしく、彼女の隣には男子が立っている。 二人の後ろには人だかりができており、 「男子の意地を見せてやれー」 「適当に盛り上げてくれ」 「負けたら焼きそばパンおごりな」 などと好きなことを言っている。 競争する男子が圧倒的に不利だ。 女子は、というと二人がスタートについたのを水の中とプールサイドから眺めているだけだ。 飛び込み台の近くにいた数人が何か声をかけているようだった。 台に立っているのは転校生の坂下だとこのときになって気づいた。 運動で男子に勝つのは難しい。 結果が見えている、と目を離した瞬間だ。 二人が飛び込んだのは。 きれいな線を描いて水面に消える。 その様子に私は目が釘付けになった。 底にひかれた黒い線で浮き上がり、二人は同時にクロールをはじめる。 列は崩れないまま、25mを泳ぎきり、ターン。 差がつき始めたのはターンをしてからすぐだった。 男子のほうが少し、速度が落ちてきた。 序盤に飛ばしすぎたらしく、疲れてきているようだった。 対する転校生は変わらないペースで泳ぎきってしまった。 何とか泳ぎきった競争相手に手を差し伸べるほどの差をつけて。 予想と違う結果にその場にいた全員が驚いていたと思う。 いや、勝った転校生は驚いていなかったように見えた。 結果をそのまま受け入れているというか。 いやな印象はなかったし、面白い子が来たのだとも思った。