店を出た凛と美汐の間には、ささやかな満足の余韻が漂っていた。美汐の表情を見て、凛も自分が満たされていることに気がついた。
「腹ごなしに少し歩こうか」
「いいですね」
二人は小川沿いの遊歩道に入った。小川の両脇には色とりどりの花が咲いている。
「さっきの店で食事した後、ここを歩くのが日課なんだ」
「風が心地よいですね」
「この時期は特に」
凛の言葉に美汐が笑った。
「陸にも興味があるんですね」
「生活範囲に関心を持って損はないよ」
「そうですね」
美汐の言葉は打ち合わせの時と同じなのに柔らかく聞こえた。この場の雰囲気がそう感じさせるのではなさそうだ。声の抑揚がはっきりしている、と凜は気が付いた。
「健康にも気を使ってもらわないと困ります」
「身体は資本だ。座り仕事ではないからなおのことね」
飼い主を引っ張って走る一頭と引っ張られる飼い主一人が突っ込んでくる。二人は左右にわかれて道を譲り、通り過ぎるのを確かめてから、また元の位置に戻った。
「あれではどちらが飼い主かわからないな」
「大きいと大変ですよ」
「飼っているのかい?」
「ええ、実家に」
そういえば、どこに実家があるのかを知らない。仕事上の繋がりであれば、友人であっても知らないことも知らせないこともある。凜自身、瑠璃にいると伝えてない友人が幾人かいる。
「地球かい?」
「ええ。里帰りが楽しみです。先生の実家はどちらにですか?」
「実家はここだ。両親はテラフォーミングのときに知り合ったんだ」
美汐が凜を興味深そうに見つめてから、
「家業のようなものですか」
「そういう見方はできる」
思わず含みあるの言い方をしてしまい、凜は失敬、と短く謝った。
「父と母はテラフォーミングに興味がある。私は環境がどう変わっていくのかに興味がある」
「かつてあった海がどのように生まれ変わるのか、ですか?」
具体的な問いに今度は凛が目を白黒させた。
「研究テーマそのものだよ」
「もっと、難しい言葉で書かれているので減点されると思いましたが」
「試験だったら満点だ。減点する要素がない」
素直に評価する凛に美汐は楽しそうに笑う。
「少しだけ勉強はしているんですよ。本をいくつか買ったりして」
「不足している資料があったら言ってほしいが」
「個人的な興味です。先生がどこを見ているのか知りたいんです」
その言葉に嬉しさを覚えて、凛は短くため息をついて、首の後ろに右手をあてた。自身が彼女に好意を抱いていることはわかっている。それがどのような種類かは考えないようにしていた。
凛にとって優秀なパイロットとしも、話のあう一人の人間として見ても美汐は魅力的だ。恋愛感情だとラベルを貼ってしまったら、その関係を失ってしまいそうで恐ろしい。恋愛経験はゼロではないし、年も重ねてある程度、落ち着いたつもりではある。ただ、いい結果がでるかは別だ。だから、蓋をしていた。
「先生は、先生のしたいようにすればいいんですよ」
何が対象なのかわからず、凜は美汐の顔を見た。わずかに目をそらされて、凜も目をそらした。もしかしたら、似たようなことを考えているのかもしれない。
「そうしているつもりだがね」
「たまに見えなくなる時があるんです」
「見えなくなる?」
美汐は前を向いたまま、言葉を続ける。
「その先に何を見たいのか、ですよ」
「未来か」
「そう、未来です。たとえば、わたしが仕事を変えるとしたら――」
「引き留める」
口をついて出てきた言葉に凜は戸惑う。ほかの言葉で上書きしても、言った事実だけは消せない。
「求められるのは悪くないですよ」
公私の境界が加速的に消えていくのを凜は感じた。美汐がどんな言葉を言うのか想像はつく。そして、この流れになら乗ってもいい、と思っている自分に凜は気が付く。
「先生になら」
美汐の一言に凛の心の蓋が外れた。感情が静かにあふれ出てくるのを感じる。顔のほてりを感じつつ、美汐を見ると、彼女も少し頬が赤い。
「もう少し歩こう。休憩スペースがある」
「そうですね。賛成です」
言葉少なめに美汐が応じた。すごい遠回しな告白が成立しつつあるのではないか、と凜は思い至る。
「先生と潜る間はパイロットをやめるつもりはありませんよ」
「そういってもらえると、嬉しいよ」
「わたしもですよ、凛先生」