ごとり、と鈍い音が聞こえた。
何か物が落ちた堅い音ではなく、誰かが倒れた鈍い音だ。
一人暮らしで、ペットもいない。
隣人が発した音だとしたら事件の匂いがする。
壁越しにしては音がクリアすぎる。
紗希はベッドサイドのデジタル時計を見る。
午前1時半、二度寝するには最悪の時間だ。
まったく、人の安眠を妨げるのは何者だ、とやや不機嫌になりながら彼女は照明のリモコンに手を伸ばす。
そして、天井にリモコンを向けてスイッチを押す。
白い蛍光灯の光に部屋が照らされる。
寝る前と特に変わりはない。
台所か、と彼女はベッドから降りようとして、
「ん?」
足元に人が倒れていた。
黒いマントが床にべたーっと広がっている。
踏んだ感覚が人だから人だと判断したが踏まなければわからなかっただろう。
「おい」
「う……」
マントの先から生えていた銀色の毛が持ち上がった。
頭か、これ、と紗希は半目で見下ろす。
「こんな時間に何用かね」
不機嫌ぶりが声に出た。
そもそもなんだ、この不法侵入コスプレ野郎は。
泥棒か?
一人暮らしの女を狙うとは卑劣な奴だ。
正当防衛の名のもとに始末しても尖れられまい。
一人思考が加速していると、
「ま、まぶしい」
コスプレ野郎が喋った。
「そのうち目がなれる。で、何者だ、貴様」
「決して怪しいものでは」
背中にかかとを勢いよく打ち込んでやる。
蛙のように伸びて、数秒ほど動きが止まった。
「ま、待ってくれ、話を、聞いてくれ」
「嫌だと言ったら?」
コスプレ野郎が勢いよく立ち上がる。
その動きに紗希はバランスを崩してベッドに尻もちをついた。
「力づくで吸わせてもらうまで!」
コスプレ野郎がとびかかって、来なかった。
上半身をベッドに乗せる形で崩れ落ちた。
「何やってんだ、馬鹿か」
「く、空腹で、力が……」
「力が出ないなら好都合だ。そこでおとなしくしてろ。警察を呼ぶから」
「……君は吸血鬼を信じるか?」
「はい?」
「吸血鬼だ」
「あの血を吸うあれか」
こいつ、何を言っているのだ、と言わんばかりの顔に紗希はなっていた。
「私がその、吸血鬼だ。君の血を吸いに来た」
「眷属にされてもグールにされても困るんで警察だな」
「そういう、副作用は、ない。少し貧血気味になるかもしれないが……人助けだと思って」
「貴様ばかり得をする話ならお断りだ」
「そこをどうか……」
自称吸血鬼の声は今にも死にそうだった。
紗希は半目で横に倒れている吸血鬼を見る。
ややあってから首筋に触れ、滑るように顎に手をやって、自分のほうを向かせる。
「本当に貧血以外の害はないのだな?」
「私は嘘をつかない」
「証明する手段がないぞ、吸血鬼」
「の、後の行動で示す……頼む……」
「いいだろう。血を吸わせてやろう。その代り、しばらくは家事の手伝いをしてもらうぞ。貧血はしんどいからな」
「わかった……約束しよう」
「約束か。契約のほうがらしいではないか」
紗希は抱きかかえるように吸血鬼の体を起こし、さらに血が吸いやすいよう向きを変えてやる。
「情けない吸血鬼もいたものだな」
「自分でもそう思う。感謝するよ、君には」
耳元から声が聞こえる。
顔も声も男前なのに勿体ないものだ、と紗希が場違いなことを考えていると首筋にちくっとした感覚。
ああ、血を吸われているのだな、と思っていると眠気がやってきた。
ふらふらとしていると、
「すまない。眠くなる人もいることを忘れていた」
「馬鹿め……これは、まぁ、好都合だ……」
そのまま、紗希は眠りの底に沈んでいった。