[[DAYS]]

何百も通った帰り道を足早に歩く。
この冷たい雨の中をゆっくり帰る趣味はないのだ。
次の交差点を渡ればもうすぐ我が家だ、と交差点に差し掛かった時、視界がぶれた。
何が起こったかわからない。
見えるのは雨を降らせる黒い雲だ。
いつ、自分は空を見上げたのだろう?
それよりも傘はどうしたのか?
冷たい雨が体から熱を奪っていく。
それと体から直接、熱が流れていく感覚がひとつ。
出血だ、と体を動かそうとするがぴくりとも動かない。
思考だけがはっきりとしている。
いや、これははっきりしているのか。
血液と一緒に気力や感情も流れているのでないか。
何より寒かった。
遠くに消えていく車のエンジン音。
はねられたのだとわかったところで、なんの助けにもならない。
狭くなりはじめた視界の端に何かが見えた。
暗くてよくわからないが人影だ。
救急車を呼んでくれればいいのに、と思う自分と、呼んでもらっても死ぬかな、と思う自分がいる。
人影が俺の顔を覗き込む。
肌が白いのか、何なのか理由はわからないが、顔がはっきりと見えた。
最後にきれいな顔が見れたのでよしとするか。
丸投げモードの思考に声が聞こえた。
「助かりたい?」
できれば助かりたい、と消極的な返事をしたいが口が動かない。
そもそも、どうやって助けてくれるというのか。
「血を少しもらえるなら助けてあげてもいいわ」
吸血鬼か何かか。
「話がはやくて助かるわ」
ラノベか。
「現実よ」
解せぬ。
眷属か何かになるのか。
「ええ」
じゃあ、お天道様の下歩けなくなったりするな。
「もともと夜行性でしょ」
ひどいことを言う。
「悩んでいる時間、実はないでしょう?」
見ての通りないと思います。
お花畑、綺麗です。
「シロツメクサで冠でも作る?」
脳内冠を相手の頭に重ねてみる。
「元気ね」
これは空元気で、死にたくないから血はあげます。
ですから、助けてください。
「そう。契約成立ね。細かい説明は後でするわ」
ブラックだ、と思ったが返事はなく、件の人物は俺の首筋に噛み付いた。
ちくりと何かが肌に食い込んだが痛みはなかった。
体の中の血が相手に流れていくのがわかる。
視界がさらに暗くなる。
話が違う。
このままでは死んでしまう。
「あら、おいしかったから飲み過ぎてしまったわ」
じょ、冗談じゃ――思考が途切れた。

次に目が覚めたときはベッドの上だ。
病院ではなく、自室の。
服は昨晩のままで、帰ってきたあとそのまま倒れこんで寝てしまったのか。
それにしても、妙な夢を見たがあれはなんだったのか。
いや、この体の軽さは本当だったのではないのか。
起き抜けから脳は元気だ。
時計を見れば朝の8時だが、午後の講義に間に合えばいいので、超がつくほどの早起きだ。
日付も大丈夫、一日寝てたとか、一年寝てたとか、そういうのはなさそうだ。
平行世界に飛ばされた説も捨てがたいがそうあるものではない。
惜しいが捨てておく。
昨晩の出来事が嘘か真か、どうやって確かめるべきか。
ラノベ展開であれば、朝ごはんを作りながら台所にいるとか、ベッドに潜り込んでいるとか、起こしに来るとか何かあるのだが、そういう美味しいイベントもなさそうだ。
誰だ、可能性は無限大といった奴は。
限りなく有限ではないか。
わけのわからない憤りを覚えつつ、熱いシャワーを浴びて、髪を乾かし、髭を剃り、服を着替え、朝のしょうもないワイドショーを流し見しつつトーストをかじると一連の朝の儀式を済ませる。
非日常は一瞬で終わり日常が帰ってきたのだ、と一人思う。
コーヒーおかわり。
二杯目のコーヒーを飲んでいると呼び鈴が鳴った。
まだ9時前なんですがなんですかね、と椅子から立ち上がり、ドアの覗き窓からそーっと覗いてみる。
相手の姿を見た瞬間、心臓が大きくはねた。
昨日の自称・吸血鬼だ。
「自称ではないわ」
心読まれてるし。
「性癖をご近所さんにばらされたくなかったらここを開けなさい」
理不尽だ、と思いつつ、扉をあける。
そのまま、立っている吸血鬼に対して
「もしかして、入れない系?」
「別に」
釣れない奴だが靴を脱ぐと揃えて、つかつかと居間に向かう。
俺のプライバシーはどうした。
「主に隠し事は禁止よ」
俺が先まで座っていた席の反対側に座り、自然な動作でテーブルの上のリモコンを操作してTVを消して、
「私にもコーヒーを」
といってきた。
いつから夫婦になったんですかね。
「いつから妻になったのかしら」
夢みたいお年ごろなんです。
言われるまま、インスタントコーヒーの蓋をあける。
「コーヒーの好みは?」
「砂糖たっぷりで」
可愛げありますね。
「聞こえているわよ」
「うっす」
カードを見せた状態で勝負するようなものだなぁ、と思いつつ、カップにコーヒーとスティックシュガーを入れてお湯を注いでかき混ぜる。
最後に牛乳を注いで終わりだ。
差し出すと無言で受け取って、そのままカップに口をつけた。
ややあってから
「体の調子はどう?」
「おかげさまで」
「ちゃんと、現実を理解しているようね」
来ちゃったんだから認めるしかないでしょ。
「昨晩、車にはねられたのよ。あなた」
それは空綺麗だなぁ、と思う羽目になるわけですよ。
「空綺麗だとは思ってなかったでしょ」
「あ、はい」
いつから読まれていたのだろうか、なんて疑問はあまり意味が無さそうだ。
それよりもだ。
「俺の体、ナニヲシタンデス?」
「俺の体にナニヲシタンデス?」
「コンデンサ容量が増えて、レーダーが強化されて、背キャノンを構えずに撃てるようになったわ」
「わー、プラス」
こいつやりおる。
「で、俺どーなってるんですか」
「私の支配下にある、といったらいいかしら」
「わー、ラノベ」
「生きているヒト相手なら、血の量に応じた期間だけ能力を貸し出せるのだけど、死にかけているヒト相手だと話が変わるのよね」
「俺はゾンビですか」
「ゾンビではないわ。死にかけているのを私の力で強引に引き延ばしているから」
「それって血を定期的に吸わせないと死ぬってこと?」
「そうね」
「月額課金制のこの生命……ッ」
「嫌なら死んでもいいのよ」
「骨ぐらい拾ってくれ」
「余すところ無く使ってあげるわ」
「ぐぇー。で、昨晩に言ってた細かい説明ってなんだ、何が起こるんだ、どんな悪事に俺は手を染めればいい……!」
「普通に生活を送りなさい」
「はい?」
「普通に生活しなさい、といったの」
「なんじゃそりゃ」
もっとこう、すごい要求があると思ったのだけどな。
「全身で表現しなくてもいいわよ」
突っ伏す俺に声が降る。
「それってお前には何の特があるんだよ」
「さぁ」
「さぁって、おま」
「せっかく、生き延びたのだから、何か役立てなさいな」
「青天井だな」
「そうするかどうかはあなた次第よ」
とんでもない契約じゃないか、これ。
「それで命が助かると思ったら安いじゃない」
笑えない。
「普通に生活して、お前の役に立て、とそういうことだな」
「抽象的な内容で怖いわね」
「怖いのはこっちだ、こっち」
何でも良いと言われると何をしていいのかわからなくなる。
「何か条件とか希望はないのか?」
「生きなさい」
「ありがとう、お母さん!」
「実の母に謝りなさい」
「ごめんなさい」
あさっての方向を向いて俺は謝る。
こうして俺の生活の中に奇妙な要素が加わったのだった。