DAYS

 眠れる時は寝ておけ、と学生時代に実習船の船乗りに言われてから、凛は忠実に守っていた。その頃からオートパイロットの信頼性は格段に向上し、人間のパイロットが眠っていても問題がないほどまでになった。
 この船の船長である美汐も仮眠室で仮眠をとっている。仮眠室は二段ベッドだが疲れているであろう彼女には安心して眠って欲しかった。

「僕はシートで寝るよ」
「先生がいた方がぐっすり眠れそうな気がするんです」
「いいから、ちゃんと寝てくれ。いくら君でも寝不足では本領発揮できないだろう」
「そうですね」

やや残念そうに美汐は言ってから、おやすみなさい、と囁くように言って仮眠室に消えた。その様子を夢に見て凛は目を覚ました。

 腕時計を見ると予定よりわずかに早いが、支度するにはちょうどいい。

「……集中しろ」

 凛は両手でぴしゃりと頬を叩く。物事には段取りがある。それを無視して進められるほど凛は器用ではないと自覚があった。
 コーヒーを淹れていると、パイロットスーツ姿の美汐がやってきた。凛は自分の分のコーヒーを差し出して、

「おはよう、飲むかい」
「ありがとうございます」

 美汐が金属製のマグカップを受け取ると、凛は自分の分を注ぎはじめた。
 操縦席に座った美汐はコーヒーを一気に飲み干して、

「先生、飲むなら今のうちですよ」

 その言葉に凛は端末で海図を呼び出して、波の観測図を重ねた。警戒を示す赤で塗りつぶされて、凛はコーヒーを急いで飲んだ。

「これは船が跳ねる……いや、ユーフォニィIIが出せないか」
「予定ポイントより手前で降ろしましょう」
「場合によっては船を安全圏まで退避させる必要がある。ユーフォニィIIのバッテリーは持つか?」
「稼働時間は心配しなくても大丈夫です。気になるのはブルーホールの稼働状態です」

 潮流調整中の文字だけが表示されている。凛は周辺の塩分濃度の低さを見て驚いた。

「ブルーホールが全力稼働して、脱塩された海水が上がってきてるんだ」
「貴重な場面に立ち会っていますか?」

 美汐はディスプレイから目を離さずにいった。

「深層海流が変化する瞬間だ。これを貴重と言わず、なんて言えばいい?」

 凛は興奮している自分に気づいて深呼吸した。

「すまない。本格的な深層海流発生の瞬間かもしれない、と思って、つい」
「その瞬間をどこで見たいかの話ですよ、先生。このまま、船の上から見てもいいし、潜ってもいいです」
「しかし、海中も流れがどうなっているか推測できないぞ」

 ブルーホールが全力運転を始めたのは海流の速度が基準値を超えたからだ。より強く速い流れを起こそうとしている。その状態の海中は大小様々な渦が生まれているに違いない。

「どこで見たいか、ですよ。先生」

 美汐は落ち着いた調子でいった。いつもだったら潜って見たいと思うのに躊躇っている自分に凜は動揺する。美汐の腕を信じている。だからといって危険な場所に向かわせるのは別だ。

「海中を走査しましたが、潜らないことにはわかりません。巨大なブルーホールの姿すら捉えられないほどです」

 ディスプレイに表示されたデータを簡潔に述べてから、

「ユーフォニィIIはこの中を潜れるように設計されているんですよ」

 彼女の言葉に凜は正直に自分の気持ちを言葉にした。

「海中の状態を観察したい」

 随分と背中を押された、と感じながら凜は続ける。

「観測ブイとプローブの投下準備を。多くのデータが欲しい」
「両方とも流されてしまいますよ」
「その流れ自体を観測したい。データがとれるなら何でもいい」

 先までの躊躇いが嘘のようだった。やりたいことがすらすらと出てくる。

「わかりました。時計まわりで移動しながら10分ごとにブイとプローブを投下します」
「ブイは全部で6個、60分後に潜航か」
「それまでに準備しておいてくださいね」
「酔い止めはいるかな?」
「念のため、飲んでおいてください」

――90分後、水深200m

 ユーフォニィIIは不思議なほどに揺れなかった。ブルーホールが周囲の海水を吸い込み、深海に送り込もうとしているにもかかわらずだ。

「ここまで揺れないとは」
「微振動タイルとフィンのおかげです」

 どんな高性能な潜水艇であっても、この状況で静かなのはパイロットの腕だと凜は思う。だが、海水がかき混ぜられている状態ではソナーも頼りにならない。

「ソナーの観測結果にリアルタイムで補正をかけて、一番揺れないコースを選んでます」

 誇るわけでもなく美汐はいった。彼女を選んだ自分の目に狂いはないが、美汐の技量を低く見ていた。海を潜るために生まれたような人だ。
 補正前のソナーは真っ白で何も見えない。補正をかけてようやく、ぼんやりと像が浮かび上がってくる。

「形ではなく、動きに注目してください」
「上昇と下降があるな」
「下降する流れに乗り換えているんですよ」
「どこでそんな技術を?」

 美汐は振り返らずにいった。

「思いつきです」

 声はとても楽しそうだった。今の凜には美汐がどんな表情なのか見なくても想像がつく。

「結果が出た。海流の速度は毎秒20mだ。まったく、とんでもない装置だ」
「黒潮の約8倍ですか」
「この乱流層を抜けたら、周辺の海底の様子を見たい」
「その前に次の乱流が待ってますよ」

 美汐はくすりと笑った。彼女のいうように深層海流の影響を受けて、周囲の海水が渦巻いているに違いない。

「乱流層抜けました。やっぱり渦がありますが密度は低いです」
「隙間を通るのか」
「はい、動力潜航に切り替えます」
「任せる」

 これはさすがに揺れる、と覚悟を決めた凜はシートに身体を押し付けた。

「動力潜航まで5、4、3、2、1、開始」

 ユーフォニィIIが海水を電磁推進器に取り込み、推力に変換する。加速やコース変更に伴う揺れはあっても、渦に巻き込まれることはなかった。
 ソナーの像は相変わらずぼやけているが、凜にも動きが読めるようになってきた。クラゲが泳ぐ姿に似ているのだ。その間にも水深計は加速的に数値を増やしていく。
 ふいにソナーの像がクリアになった。この模様は海底の起伏だ。

「動力潜航停止しました。海底まで100m」
「海底の情報を集めたいコースは任せる」
「はい」

 船体が水平になり、深度を保って、大きな円を描くように動き出す。凛が良く選ぶコースだ。

「周辺は静かなものだ」
「上は先と変わらずです」

 凛はソナーの観測結果を立体表示させてぐるりと回してみる。上方は美汐のいう通り、乱流の影響で正確に測定できない。北方向にも測定できない領域が伸びている。竜巻を横倒しにしたかのような形だ。
「北のノイズは深層海流か」
「計算と合致していますか?」
「計算とは合致しているが、その場にいるのはやはり、違うな」

 人間の時間感覚では想像できないようなものがすぐ近くで始まっている。今、感じていることは近くにいなければなかったはずだ。
 海底付近の海水は透明で、海底の沈殿物も動いた形跡がない。数か月後に潜って比較すればまた何かわかるだろう。

「あの乱流が嘘のようだ」
「帰りは通るのを忘れないでくださいね」

 いたずらっぽく美汐がいった。

「今は忘れていたい」
「忘れていたい、で思い出したんですが」

 間をおいて、

「研究室のやり取り、覚えていますか?」

 やり取りを刻んで時間を稼ぐ戦術もあるが、おそらく無効化されるので思い切って、

「付き合っているのか、と聞かれて『まだ』と答えたことかな」
「はい」

 確定だった。

「この流れでドラマティックなものを期待しないで欲しい」
「どこだったら、ドラマティックになりますか?」
「母船だ。戻るころは夜、例のプランクトンも活発になっているよ」
「楽しみにしてますね」

 これは完全に追い込まれた、と凛は腹を決める。どうやら、今日は貴重な体験を二度する日らしい。
 調査自体が滞りなく終わると、ユーフォニィIIは乱流層に突入した。

 海面に浮上したユーフォニィIIを母船が迎える。ユーフォニィIIが固定されると二人は手順通りに母船に降りた。
 美汐はユーフォニィIIの点検、凜はその様子を見ながら、ブイとプローブのデータを確認する。両方とも遠くに流されている。回収はできるがやるなら明日に回したほうがよさそうだ。
 タラップを降りる音に凜が顔をあげると、美潮の姿があった。

「点検終わりました。必要でしたら明日も潜れます」
「明日はブイとプローブの回収をお願いしたい」
「わかりました」

 これで今日やるべきことはなくなったな、と凜は端末の電源を切る。

「風が気持ちいいですね」
「ああ。少し潮の匂いがする」
「これもテラフォーミングの成果ですか」
「この星はこれまでも、これからも変化を続けていくんだ」

 甲板に出て光るプランクトンでも見ながら話をしようか、と思っていたが、作業の延長戦で話が始まってしまった。仕切りなおすか、と凜が考えていると、

「ひとつ大きな発見をしたんですよ」
「どんな発見だい」
「わたしはあなたのことが好きです」

 美汐は真っすぐ凜を見ていった。

「先に言われたか。僕も好きだ」
「公私混同ですね」
「気になるかい?」

 凜の問いに美汐はふふ、と笑って、

「気にするように見えますか?」
「いいや、見えない」

 ゆっくりと首を振って凜はいった。

「続きは船室に戻ってからにしよう。温かいコーヒーが恋しい」
「そうしましょうか」

 凜の横を美汐がするりと通り抜けていく。その背を追いかけるように凜は立ち上がって、窓の向こうの波間を見た。

「美汐、外を見るんだ」
「……海が星空みたいですね」
「ああ」

 二人でしばらくその光景を眺めて、

「もう一回、名前で呼んでくれませんか、凜」
「意識するとこそばゆいな」

 頬をかいて見た窓ガラスにはにこにこした美汐の顔があった。凜は息を静かに深呼吸して、

「美汐」
「ふふ」

 満足そうに美汐は笑う。そういう表情もするのか、と凜は感慨を覚えた。