ぴちゃり、と冷たく湿った土の感触に、ラウトは違和感を覚え、意識を取り戻した。
周囲は薄暗く、自分自身の輪郭すらぼやけているようだ。

(…っ、日誌は……!?)

慌てて周囲の地面を手で触る。すると、すぐに覚えのある感触が手に伝わってきた。
持ち上げ、間近で確認する。

「よかった……」

それがいつも持ち歩いている業務日誌であることが判明し、
ラウトの口から思わず安堵の声が漏れた。

頬についた泥を袖で軽く拭うと、改めて周囲を見渡す。
どうやらここは洞窟の中のようだ。
先程までは慌てていて気付かなかったが、全身を包む冷たい空気にラウトは身震いする。
吐かれる息は白くなって消えていき、出口と思われる光の先には雪がちらついていた。

(さむ…。間違えて鎧羅にでも来ちゃったのかな……)

ラウトは自分が意識を失う前のことを思い出す。
図書館も休館日の為、遠出をしようと外へ出た筈が
道中で耐え難い耳鳴りに襲われ意識を手放した。
そこまでは覚えている。
しかし、飛天の地を出た覚えはない。
今ラウトが居る寒冷な気候は、彼が知る限り鎧羅地域のみであり
そこへ向かうには少なくとも、半日を要する筈だった。

上空に浮かぶ王宮は少々肌寒いが、基本的に温暖な気候である飛天の地で過ごしてきた
ラウトは、寒冷な気候を苦手としていた。

「とにかく、帰らないと…」

寒さでへたり込みそうな心を叱咤し、ラウトは洞窟の外へと足を踏み出した。

(う……)

ラウトの目の前に広がったのは、一面の銀世界だった。
見ているだけで体が凍りつきそうな感覚に襲われ、思わず洞窟へ
後ずさりしてしまいそうなる。

(とにかく、空から様子を見て、位置を把握しないと)

とん、と硬い雪面を蹴る。
しかしその体は空へ舞い上がることはなく、ラウトの足はすとん、と再び雪面を踏み締めた。

「え……!?」

思わず声が漏れる。
もう一度、雪面を蹴る。………飛べない。
慌てて翼を羽ばたかせようとする。しかし、その翼の感覚が、ない。
振り向き、自分の腰に見慣れた白い翼が存在しないことに気付き
ラウトは動揺を隠せなかった。

「何で…、どうして……?」

知らない土地で目を覚まして、自身の身体に変化がある。
それはまるで、ラウトが昔読んだ本のような話だった。
巨大な魚を助けたところ、その魚に飲み込まれ、気がつくと
異世界へ飛ばされてしまった、男の話。
男はいつの間にか水中で呼吸が出来る体になっており
そのまま魚の王国で過ごす、といった御伽話だ。
そしてその話の結末は―――。

―――ゥォォオオオオン!

どうにか気持ちを落ちつかせようと苦心するラウトの思考を掻き消すように、
獣の咆哮が響き渡った。

「な、何…!?」

急に殺気立った空気に、ラウトは身構える。
四方八方から飛び出してきたのは、狼のような四足の白い動物、ガルフルだった。
ガルフルは距離を取りつつも、あっという間にラウトを取り囲み、退路を塞ぐ。
どうやら、ラウトは彼らの獲物と認定されてしまったようだ。

(囲まれた…。どうしたら……)

じりじりとガルフルがラウトとの距離を詰めて来ている。
殺気立つガルフルを視界に入れたまま、ラウトは飛べない状態で
どうやってこの状況を打破するか思案していた。

(魔法は………使えそうだ…!)

普段炎魔法を使うように、右手に意識を軽く集中させる。
ちりちり、と火花が爆ぜるような感覚があり、ラウトは内心安堵する。

(一瞬でも気を逸らせたら、何とかなるかもしれない)

思考を巡らせ、即座に状況打破までの道筋を立て、大体こんな感じで
大丈夫だろうという結論に至る。
ガルフル達は間合いを一気に詰め、一斉にラウトに向かって飛びかかった。

「来ると思ってたよ!」

ラウトの瞳に鋭い光が宿る。
瞬間。ごう、と熱風が吹き、燃え盛る火球がいくつも現れ、ラウトの周囲で渦を描いた。

「ギャン!!」

ガルフルは、突然現れた炎に怯む。
どうやら彼らは火に弱いようだ。
ラウトはその隙を見逃さず、走り出す。

(これなら、抜けられる…!)

何とかなると思っていたラウトに、ひとつ大きな誤算があった。

「…わぁっ!?」

走り出してから、ほんの少し経ったところで、ラウトは雪に足を取られ、
べしゃり、と転倒した。
転倒した際に激しく打った膝がずきずきと痛む。
今まで移動手段の大半が、翼による飛行だったラウトの足は走ることに慣れていなかった。
“走る”ということは概念上はラウトも理解しているし、何度か走ったこともある。
しかしそれは普通の地面での話であり、今ラウトが立っているような雪原を
走った事は、一度もなかった。
急いで立ち上がり再度走り出そうとするも、足がうまく動かず、
また冷たい地面に転倒する。
焦りと寒さで心臓の鼓動が大きく頭に響いた。

「くっ…」

近づいてくる気配に向かってもう一度、火球を撃ち出す。当たった気配はない。
突如、ぐいっと襟首を引っ張られる。
何が…と思案し始めた途端に、ラウトは氷壁に叩きつけられていた。
痛みにぐらぐらする視界でぼんやりと捉えたのは、ガルフルと同じような姿だが
それよりも一回り以上大きく、赤いたてがみが目立つ動物。ファンガルフルの姿だった。
先程ラウトを放り投げたのはどうやらこいつらしい。

ガルフルとは比較にならない殺気に、ラウトの背筋に冷たいものが走る。
死の影がじりじりと近づいているのを実感してしまう。
逃げるか反撃するか、痛みと寒さと焦りがどんどんラウトの思考を奪って行く。
ファンガルフルの咆哮に呼応するように、ガルフル達の攻撃が次々と叩きこまれる。

(死にたく…ない……)

業務日誌を守るようにうずくまるラウトから流れる血が、雪を赤く染めて行く。
意識を失いかけた瞬間、ふっとラウトの脳裏に、2人の少年の姿が
走馬灯のように浮かんだ。
1人は身分の低い自分にも友達として接してくれる、敬愛すべき自分の国の王様。
もう1人は熱い心を持つ憧れの騎士様。
その人達と共に在る為に、目指すものがあるのだという気持ちを思い出し、
ラウトははっと我に帰る。

(そう…だ。僕はまだ生きるんだ…。絶対に…!!)

もう一度燃え上がった意思の炎は、四散しかけていた思考をクリアにしていく。

「こんなところで、死なない…!」

ボロボロの体を奮い立たせ、立ち上がる。
きっと見据えた強い視線に、ガルフルが怯む。
しかしファンガルフルの方はそんな視線をものともしない。
ラウトはファンガルフルから目を逸らさずに、全身の力を振り絞った。
無意識のうちに、業務日誌を持つ手にも力が入る。

「パストーソ・フレイム!!」

叫びと共に大きな炎が噴き上がる。それとほぼ同時に、ファンガルフルの鋭い爪が
ラウトの皮膚に食い込んだ。


***

「あれっ?」
「マルカート、どうかしたのかね」

身を切るような凍土の寒さなど、少年にとっては何一つ障害となり得ないのか、
普段と変わらない調子で、ブリアントザイドの前を楽しそうに走っていたマルカートが、
突然足を止めた。
ブリアントザイドは慌てる様子もなく、静かにホバーを止め、同じように立ち止まる。

「うーん…」

マルカートは何か違和感のようなものを感じているらしく、
きょろきょろと周囲を見回すと、不思議そうに首を傾げた。

「よくわかんないんだけど…、よくわかんないフォトンの気配がした気がするんだー」

ブリアントザイドを見上げ、そう話すと、まだ気になるのか再び周囲に目を向けている。
どうやらマルカートはその“よくわからないフォトン”のことが気になるようだ。

「ふぅむ。君は私よりフォトン感応力が高い。君がそう言うのなら、何かあるのだろう」

キャストであるブリアントザイドは、マルカートのようにフォトンを感じたり
見たりすることがほとんど出来ない。
尤も、最近開発された技術によりキャストでもフォトン感応力を高めることは
可能ではあったが、ブリアントザイドにその技術は使われていなかった。
ブリアントザイド自身も、その機能は不要だと感じていた部分もある。
対して、マルカートはニューマンの中でもフォトン感応力が非常に高く、
遠くのフォトンの気配を感じたり、フォトンを視覚情報で見る事が出来た。

「うん。さっきそのフォトンがどっかーんして、今はほとんど見えないんだ」
「そのフォトンが瞬間的に高まった場所に察しはつくかね」
「んーとねー…。なんかせまい所…洞窟っぽいのの近く…かなぁ」
「ふぅむ」

ブリアントザイドが徐に自身の端末にアクセスし、何かを呼び出す。
すぐさま電子音と共に電子パネルが起動し、現在のエリアの地図が表示された。
地図にはパーティを組んでいるメンバーの位置、周辺のエネミーや他のアークス、
一時的に道を塞いでいる壁といった情報がアイコンで表示されている。
表示している地図上には洞窟を示す行き止まりがいくつか表示されていた。
ほとんどの洞窟の入り口には、一時的に道が塞がれている事を示すアイコンが光っていたが、
一か所だけ、入口が塞がれていない洞窟が存在した。
ブリアントザイドが電子パネルを開き、何かを思案している間も
マルカートはそわそわと周囲に視線を走らせては、首をかしげていた。

「まだフォトンの気配は感じられるかね」
「ううん。もう全部消えちゃった。いつものフォトンしかないよー。
 あれ。それ、地図?」

ブリアントザイドの問いかけに、マルカートはふるふると首を横に振った。
そしてひょこりとブリアントザイドの前に表示されている電子パネルを覗きこむ。
ブリアントザイドは、マルカートが見やすいように電子パネルの高さを下げた。

「先程、君が洞窟と思われるものの近くでフォトンの気配を感じたと言っていたのでな。
このエリアの洞窟の位置を調べていたところだ」
「このぴかぴかしてる所はなに?」
「一箇所のみ、何者かが出入りした形跡のある洞窟が存在していると思われる」
「それがここなの?」

電子パネルの地図上に点滅しているマーカーを指さし、マルカートは
ブリアントザイドを見上げる。
点滅するマーカーは、先程ブリアントザイドがつけたものだ。
現在地からはさほど遠くない。

「ここに行ってみたら、誰かいるのかなー」
「確証は無いが、向かってみる価値はあるかもしれない、と私は感じている。
 君はどうだろうか」
「うん!じゃあまずここに行ってみよーっ」

マルカートはブリアントザイドの地図をコピーすると、自分の端末に表示させる。
マルカートの地図にも同じアイコンが表示されたことを確認すると、
ブリアントザイドは電子パネルを閉じた。

「それじゃあ、しゅっぱつー!ごーごー♪」

感じたこともなかったフォトンに好奇心が爆発しているのだろう。
うきうきと走り出すマルカートの後ろをしっかりとブリアントザイドは追いかける。
目指すは、唯一入口の開かれた洞窟周辺。


***

「はぁっ…はぁっ……」

風の音だけが聞こえるようになった雪原に、ラウトは立っていた。
荒い息を整えようと呼吸をする喉が、ひゅう、と鳴り、
ざっくりと切り裂かれた衣服のあちこちには血が滲んでいる。

ファンガルフルの爪がラウトに致命傷を負わせるよりも先に、
ラウトが放った炎がファンガルフルの身を焼き尽くした。
決死の炎は周囲のガルフルも数体巻き込み、リーダー格であったファンガルフルが倒れると
残りのガルフル達は一目散に逃げて行った。
周囲には黄色に輝く八面体や、紫色の圧縮箱などが転がっている。
どうにか敵を退けたものの、ようやく訪れた安堵の瞬間にラウトの糸が切れた。
限界を迎えた体に容赦なく寒風が吹きつける。

「ザイドおじさん!見つけたよー!」

寒さと失血で意識を失う瞬間、声変わり前の少年のような声と共に
誰かが駆け寄ってくる足音が、ラウトの耳に届いた気がした。


***

マルカートの指さした先に広がっていたのは、死闘の跡だった。
ばらばらと散らばるアイテム類は、倒されたエネミーによるものだろう。
その中心に、マルカートと背丈がほとんど変わらない少年が立っている。
見るからに重症を負っている上に、少年は見たこともない衣服を身に纏っていた。
元は鮮やかな赤に、金の柄がきれいに映えていたのだろう。今はあちこちが破け、
泥と血でくすんだ色をしていた。
ふらりと倒れ込む少年と、駆け寄ったマルカートが支える。
ブリアントザイドも急ぎ足でそちらへ向かい、マルカートが支えている少年を
支える役目を交代する。

「マルカート。君はレスタをかけて貰いたい」
「うん!ちょっと待っててねー」

マルカートは、身の丈以上ある杖を持ち上げると、意識を集中した。
周囲のフォトンが一気にマルカートに集まっていく。

「いつもよりいっぱいだよー。レスターっ!」

マルカートのかけ声と共に、杖が高々と掲げられる。
ふわりと暖かい光がマルカートを中心に何度も降り注いだ。
きらきらと光る輝きが収束すると、ブリアントザイドに抱えられている少年の傷は癒え、
青白かった肌にも血の気が戻っている。
大事には至っていないことを確認すると、ブリアントザイドは
そのまま少年を抱えたまま立ち上がった。

「ザイドおじさん、帰る?」
「うむ。このままここに留まるのは危険だろう。
済まないがマルカート、テレパイプを頼めるだろうか」
「はーいっ」

マルカートは素直にごそごそと鞄を漁り、目的のアイテムの封を切ると
遠くへ放り投げた。
ぽん、と独特の音を響かせ、アイテムが投げられた場所に転送装置が起動する。

「助かる。では、戻ろうか」
「うん!」

静かに少年を抱えたブリアントザイドが歩き出す。
マルカートもその後をついて歩き出した。

「ね、さっきのフォトンって、このおにいちゃんなのかなぁ」
「他に人影が見当たらないことから推測しても、その可能性は
大いに有り得る話だと私は思う」
「アークスっぽくないよね」

てくてくと歩きながら、ブリアントザイドの腕の中にいる少年を見て、
マルカートは自分と同い年くらいかなぁ、と考える。

ブリアントザイドも、周囲にアイテムが散らばっていたことから
少年には戦いの心得はあるのかもしれないと思案していた。
しかし、ここでいくら憶測を並べても仕方がない。

「まずは彼が目を覚ますまで待つことにしよう」
「そうだねー。ベッドいっぱいあるし、チームのお部屋に行っても
いいんじゃないかな!」
「では、エオには後程私から連絡を入れておこう」
「はーい!」

見慣れた転送装置の輪に入ると、二人はキャンプシップへと転送を開始した。

その後、保護された少年、ラウトが目覚めた後、マルカートの質問責めにあった挙句
行くあてもない彼がマルカートとエオに半ば押し切られる形で、
チーム“パイドパイパー”に身を置くことになったことは、言うまでもない。

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