wired raven

文字通りの日記。主に思ったことやガジェットについて

縮小現実

fitGearは眼鏡型のデバイスだ。 一昔前に大流行したスマートフォンを眼鏡にかけられるようにしたものだ。 視界に重ねて、情報を表示できるようになったので、ナビや飲食店などの検索に威力を発揮した。 発売当初は色物扱いされたが、自由度の高さが評価されてあっという間に普及した。 現実を拡張する使い方が大半ではあるが、現実を縮小する使い方もあった。 音の洪水をフィルタリングし、必要なものだけを聞こえるようにする聴覚キャンセリングが良い例だ。 外部の刺激に過敏に反応する人たちというのが一定数いて、そういう人たちにとって必要なものだった。 続いて出てきたのが視覚フィルタリング技術だった。 これはfitGear内蔵のカメラで撮影した内容をリアルタイムで処理し、不要な物体を任意の画像で消すものだ。 本来は視力の弱い人を支援するための技術だ。 この2つを私は鬱陶しい現実を見ないために使っている。 この手の使い方が好まれていないのは知っている。 理由はいくつかあるようだ。 ひとつはリアルタイムで処理するため、わずかながら遅延がある。 0.1秒未満の遅延があり、耐えられない人はひどく酔うらしい。 もうひとつは視界を覆っているために危険だ、というものだ。 fitGearの視覚フィルタリング技術はとても優秀だ。 危険なものがあればアラートが表示される。 街頭に設置されたカメラや他のユーザと情報を共有しているから、危険なものが死角に隠れていてもアラートが表示される。 自分の目だけに頼るよりずっと安全なのだ。 自分の好きな音楽だけを聞きながら私は昼下がりの街を歩いていた。 人のピクトグラムに混じって歩道を進む。 このピクトグラムはとあるアニメから抜き出したもので、これを使っていると自分がそのアニメの登場人物になったような気分に浸れる。 ふと、頭の良い人は自分にとって不要な情報、つまりはノイズを自分の脳だけで処理できるのだろうか、と疑問に思った。 明確に病気だと言われれば気が楽なのだが、病的だとしか言われたことがない。 処理できないのは自分の頭が悪いからか、と結論を出すとため息をついた。 がしゃん、と何かがぶつかる音がした。 視界に「注意:交通事故発声」の文字が表示された。 この先にある交差点か、と進みがゆっくりになったピクトグラムを眺めながら位置を整理する。 続いて交通事故の詳細が表示される。 負傷者けが人はなし、ドライバーは行方不明。 行方不明? 責任をとりたくないから逃げたのだろうか。 しかし、逃げても無駄だろう、と考えていると正面から悲鳴が聞こえた。 fitGearはこの悲鳴を必要なものと判断したらしい。 嫌な予感がする。 ピクトグラムたちが来た道を引き返し走り始めた。 「なに?」 今日、はじめて発した言葉がこれだ。 ピクトグラムが動かない私を避けて走る。 海が割れた真ん中に立っているような気分。 不審人物発見、警戒せよ、fitGearが警告を表示した。 どこ、と探すと正面にそれはいた。 ピクトグラムではなく、普通の人として表示されている。 手には刃物が握られている。 刃渡りは15cmぐらいだろうか。 刃からは赤い雫が落ちているように見えた。 私は向きを変えると走りだした。 後ろは見えないが街頭のカメラと連携しているfitGearは後方から不審人物接近中と矢印つきのメッセージで追いかけられていることを教えてくれている。 警察到着まで5分のメッセージが恨めしい。 走ると視界が微妙に揺れて鬱陶しい。 fitGearのfitは体に馴染む意味も込められているがこの状況だとあまり馴染んでくれそうにない。 fitGearを外してポケットに突っ込む。 視覚と聴覚に今までノイズ扱いしていた情報が一気に流れこむ。 普段はどれだけ鬱陶しくても今は五感のすべてが必要だった。 逃げ惑う他の人々の要素も、悲鳴や怒号も逃げるためには有益な情報だ。 まだ、刃物野郎はついてきているようだ。 引きこもりがそんなに狙いやすいか、この野郎。 怒りと同時に視界が狭くなる。 心臓は爆発しそうな勢いで収縮し、全身に血液を送り込んでいる。 今なら戦っても勝てそうだ、と錯覚しそうになるがさすがに刃物を持った男に勝てるとは思えない。 正面、道路一面を防ぐように車を止めている集団がいる。 警察だ。 私はその列の間に滑り込んだ。 警察官の一人が「大丈夫か、君、怪我は!?」と問うてきた。 耳元で大きな声を出さないで欲しい、と思いつつ、小さな声で大丈夫です、と私は答えた。 振り返ると警察官たちが刃物野郎を見事な連携で追い詰めていた。 「参考までに話を聞かせてもらえないでしょうか」 呼吸を整えていると自分が汗だくであるとか、ここが街中で非常に煩いところだとか、今まで忘れていた不快感がどっとやってきた。 「わかりました」 「ありがとうございます。必要なものがあったら言ってください」 「……大丈夫です」 私はあの静かな世界が恋しい、とポケットに触れた。