Feathery Instrument

Fine Lagusaz

帽子屋

帽子屋、それが彼女につけられた名前だ。 誰が言い始めたかは知らない。が、由来だけは想像がついた。 かつて、帽子屋という職業は作業の過程で水銀を使っていた。 水銀中毒の存在は知られていなかったから、彼らが中毒になっても気が触れた程度にしか思っていなかったのだ。 それは慣用句として「帽子屋のように気が狂っている」という言葉を生み、不思議の国のアリスに登場する帽子屋のモチーフになったりもした。 それにかけたあだ名だと彼女は理解していたし、狂っている自覚もある。 だから、自分は帽子屋だ、と認識していた。 本を読み始めるのは好きだった。 展開が気になる。 理解できなければ読みなおすのも楽しい。 誤字脱字があっても補完できたし、巻末の解説やあとがきを読むのも面白かった。 目次ですら想像力をかきたる。 辛いのは読み終えて現実に返ってくる瞬間だ。 本を閉じた瞬間に目の前に広がっていた世界が一変する。 見たくも聞きたくも触れたくも認めたくもない現実がやってくるのだ。 それだけが耐えられない。 だから図書館に来た時は読みたい本、読みたいものがなければ近くにあった本を手にとり、高く積み上げた。 この読み方について司書に注意されたことがある。 一人で本を専有するな、これは共有の財産だ、と。 彼女はそれを無視した。 言葉を重ねるより、姿勢を見せたほうがはやかった。 何より、本を読んでいるのを邪魔されたくなかった。 何度かの無言のやり取りのあと、司書は何も言わなくなった。 何も言わなくなったが彼女が来ると挨拶代わりにおすすめの本を進めてきた。 返事もせず棚に向かうとすすめられた本も含めて手に取り、いつものように積み上げて、上から順に読み尽くしていく。 そういう日々がずっと続いた。 ずっと、世界は好きになれなかった。 いつものように勧められた本も含めて読みたい本を手に取り、書架の間を歩く。 この空間はまだ、好きな方だった。 歩きながらふと、思う。自分がやっていることは、世界と関わることではないのか。 一方的に司書が本をすすめてきただけだが、彼女はそれを許容し、手にとっている。 何を基準に司書が本を選んでいるかはわからない。 わからないが、自分好みの本をすすめてきている。 事実、ここ数カ月は好みの本の傾向をぴしゃりと当てていた。 それが仕事だとしても脅威だった。 そして、気づいてはいけないことだ、と認識してから思った。 拒絶していたものと肯定していたものが入り混じる感覚。 肌が浮き上がるような嫌悪を覚えた。 とにかく、ここに居たくない。 彼女は本を捨てて走りだした。 大きな音に気づいた司書が声をかけるが帽子屋は無視した。 もう嫌だ、こんな世界は嫌だ、嫌だ。 声にならない声を上げ走る。 気がつくと図書館の屋上にいた。 一度だけ、気まぐれでここで本を読んだことがある。 光が強すぎて読みにくく、何より喧騒が鬱陶しく、馬鹿なことをしたと記憶に残っていた。 そういう場所だ。 自分は何をしていたのだろう、と思いながらフェンスを見上げる。 登れないことはない。 靴を脱ぎ、カバンを捨て、フェンスに指をかけ、足をかけ、登る。 そして、ゆっくりと降りた。 向こう側へ。 フェンスがない分、景色がよく見えた。 これなら見えないほうが良かった、と思う。 いや、そのフェンスですら嫌悪の対象なのだから、どうでもいい話だ。 いろんな考えや気持ち、物語のフレーズが混じり合っている。 頭の中が騒々しかった。 もううんざりだ。 頭の中の乱闘が収まった。 静かだ。 何時ぶりだろう、と思うが思い出せない。 それも些細なことだ。 やはり、この世界は嫌いだ。 彼女はコンクリートの縁を蹴る。 迫るアスファルトが背表紙に見えた。

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