天体観測

雫を帯びた夜の草原を歩いているせいで、コートは冷たく濡れていた。
動き続ける筋肉は熱を発するが、外気に触れすぐに冷える。
趣味の自転車のおかげか、まだ体力は続いている、と前を歩くアルギズアズリエルは見た。
白い息を吐き出すわけでもなく、ペースを乱すことも無く、ただ、目的に向かって歩いていた。
目的地は何処なのか、アズリエルが尋ねようと口を開こうとすると、アルギズは立ち止まり、微笑みと共に告げる。
「ここです」
「……特に何か面白いものがあるとは思えないな」
見渡しても目に飛び込むのは雫をまとった草だけだ。
「それはどうでしょうか」
持ってきたシートを草の上に広げて、アルギズは寝転んで正面を見た。
「アズもこうしてみてください」
言われるまま、アルギズと同じように空を見る。
「すごいでしょう?」
「……」
二人の目に飛び込んできたのはいくつもの星たちだ。
それは視界全域を埋め尽くし瞬いている。
「本当にすごいな……」
息を大きく吐き出しながらアズリエルは言った。
冷たい空気が肺に入り込み火照った身体を奥から冷やした。
草の感触と満点の星を楽しみながら、アルギズは静かに歌い始めた。
その歌はアズリエルも知っている歌だ。
彼女の好きなバンドの歌で、TVで何度か聴いた事がある。
恋愛の歌に聞こえるが、本当は過去の自分と今の自分の歌という話だったか。
おぼろげに覚えているメロディを必死に思い出し、彼女の声に合わせる。
歌いだす彼をアルギズは少し驚いた顔で見た。
その顔はすぐに微かな笑みに、視線は空に戻った。
二人の小さな歌声が夜空に吸い込まれる。
最後まで歌い切ると満足感と穏やかな静けさが訪れた。

「それにしても、街から少し離れただけでこんなに星が見えるとはね」

感慨深そうにアズリエルは言った。
「はじめてここに来た時は、私も驚いたんですよ」
一拍間を空けてアルギズは囁くように話を続けた。
こちらに来たはじめの頃は、色んなことに不慣れだったこと。
特に音や空気に馴染めずよくここに来ていたこと。
そして、他人を招いたのはアズリエルがはじめてであると言うこと。
すべてを聞き終えてアズリエルは、
「ありがたいこと、なのかな」
と呟いた。
アルギズは答えず、静かに立ち上がった。
彼女の小さな背中の向こうには果てのない星の海が広がっていた。
「そろそろ帰りましょうか」
「そうしようか」
「あ、帰りは飛んで帰りましょう」
「僕は飛べないんだけど……」
「お姫様抱っこなんてどうでしょうか」
いたずらっぽい笑みを浮かべて言う彼女を無視して、アズリエルは歩きはじめる。
「冗談ですよ。手、しっかり握っていてください」
「……これはこれで恥ずかしいね」
「たまにはいいと思いますよ、こういうのも」
そういったアルギズの背中には黒い翼が現れた。
その向こうにある宇宙の闇よりも深い漆黒の翼だ。
「行きますよ」
「ああ」
アズリエルの頷きと同時に漆黒の翼は白い飛沫を上げ羽ばたいた。
飛翔の瞬間に起こった風は波紋のように草原を駆け広がっていくのが見下ろせた。
ふと、上を見ると先よりも近いところに星がある。
手を伸ばせば届くと錯覚出来るぐらいに。
気づけば空の星は輝きは弱まり別の星の輝きが増していた。
「地上の星、ですね」
アルギズの呟きに頷きながらアズリエルは思う。
これが彼女の視点なのだと。
そしてこう願った。
いつかは自分の力で同じ視点に立てるように、と。